「無人島」に寄せて
夢の中に「死者」が登場するといつでも、私は、その相手がすでに死んだ人であることに気がつかない。全く彼らが生きていたときと同じように彼らを受け入れ、向き合ってしまう。
これは自分の迂闊さのためだとずっと思っていた。夢の中の話でもあるし、ぼんやりしていたとしても仕方がない。まあそんなもんだろうと思うばかりであった。
しかし、よく考えると不思議である。あれほどまでに強烈な死別の経験が、夢の中では露ほども意識されないのである。とるに足りない些末な体験が案外具体的に意識されることがあるにもかかわらず、死者を死者として意識出来ないというのは、本当に、私に落ち度があってのことか。
もしもその原因が「私」自身に依拠するものでないとしたら、夢の形式にこそ、その秘密がかくされているに違いない。たとえば、夢の世界には生と死の区別がない、というような。
ある男の見た夢の話をしよう。
夢の中で、男は親しい人たちと歩いていた。その中には彼の死んだ父親もいた。しかし彼は父親がすでにこの世を去っていることに気がつかない。当たり前のように、ほかのまだ生きている人たちと同じように父親の存在を認めている。やがて父親は一人だけ足早に入り組んだ道を先に進み、見えなくなってしまう。男は父親の姿を見失うが、どういうわけか父親がどの道を進んだのかが分かり、あとを追うように一人歩みを進める。そして、ようやく父親に追いつく。父親は、立ち止まって、男をじっと見つめている。男は少し決まりの悪い思いがし、目をそらし、早く他のみんなが追いついてくれないかと後方に目をやる。しかし、さっきまで一緒にいたみんなの姿は見えない。それなのに、彼らの楽しそうな声だけはすぐ近くに聞こえる。男は父親と二人で、じっとその場に立ったまま、彼らが来るのを待っている。
夢がそう遠くない死期を暗示していると言えなくもない。男がそのことに気付いているかどうかは定かではないが、少なくとも彼は、いつ死んでもいいような心持ちでずっと生きてきた。夢判断など必要のない男だった。彼はいくつかの芝居を書いて、いくつかの人と出会い、その中にはいくつかの恋もあったが、まあそれだけの男だった。
彼はとっくに死んだと言うものもあれば、いや、まだ、ぐずぐず生きていると言うものもある。まあ、どちらでも同じようなものだ。
今日は久々の雨ですね。
雨降れば誰でも濡れるただ傘の
あるかなしかの別こそあれど
十三