ヘイトスピーチをしているあなたに


Twitterへのヘイトスピーチに苦痛を覚え、ホームページ画面からアイコンを消すことにした、という柳美里さんの発信のretweetを目にしたので、少し中身を読ませて頂きました。



ヘイトスピーチの書き手のあなたが、この文章を読むことはなかなかないかもしれませんが、思っていることを率直に書きます。少し長くなりますが、お付き合い下さい。




あなたは柳さんに対し、お前の祖国は嫌いだ。だからお前も嫌いだ。俺の国から出て行け、と、こういうことを言っていますね。もちろん、あなたが何を好み、何を嫌おうとあなたの自由です。ただし、それはあなたの胸の中でのみ、という条件付きの自由です。あなたはこの世界の王ではありません。そしてあなたは、ほかの何者よりも劣っていませんし、ほかの何者よりも優れてもいません。もしもあなたが、誰かより優れているとするなら、やはり誰かより劣っていると言わなければなりません。あなたは、特別ではない。しかし、特別ではないからこそ、誰からも尊重されるべき存在であるのです。このことに間違いないことは認めて頂けると思います。とすれば、あなたの自由は、ほかのあらゆる自由と等価であるはずです。しかし、それゆえその自由は、徹底した自律を求められます。自律とは、己の動物的な欲望に屈しない信念です。人間の尊厳です。自由とはその意味で、牢獄以上の不自由なのです。


また、あなたはこの国を、「私の国」だと考えているようですが、これもよく考えるとおかしな話です。なぜなら、国はあなたの車や家のように、形のあるものではありませんから。そこから誰かを追い出したり逃げ込んだり出来るものではないのです。国は一人の人間が所有物のようにみなし、扱える玩具ではあり得ません。あると思えばあり、ないと思えばない。滅ぶも栄えるも、人の胸のうちであり、夢とも現実ともつかぬものです。しかし、私が国を思うとき、胸に思い浮かぶ一つの光景があります。それは砂漠の泉とも言うべき世界です。その泉に潤いを求めて集まる生き物は、恵まれたわずかな潤いに、感謝し、分け合い、喜び合う。そこに争いはあり得ません。多く飲むものもあれば少なく飲むものもいます。それでも争いはないのです。万が一にも、その世界を特権的に独占しようとし、他者を排除しようとする者はいません。なぜか? それはきっと、生きることに優先順位がないことを、共存とは赦し合うことであることを、どんな生命であっても生得的に「知っている」からです。あなたが大切にされている国を愛するという気持ちは、この生命の、永遠不変の法則に裏打ちされています。とすれば、愛国心とは、隣人愛、つまり、隣国愛です。ちょっと矛盾しているように感じるかもしれませんが、他の国を愛せない者に自分の生きる国を愛することなど出来るはずがないのです。馬鹿な、そんなことあるものかと片付けないで下さい。白がなければ黒はなく、黒がなければ赤もないのです。自然の中に無駄な色は一つとしてありません。そしてまた自然の中に、独立した単色というものも、またないのです。とすれば、俺の国から出て行けと言うのは、論理的にも、言うことの出来ぬ言葉であることが知れるでしょう。いえ、もっと言えば、それは口にした本人自らを、国から投げ出す厳しい言葉になるのです。共同体のサイズを小さくして考えてもらえば、それが疑いのないことであると分かって頂けるでしょう。


あなたは、柳さんを知りません。きっと彼女の著作を読んだこともないでしょう。おそらく知っているのは、彼女の出自と、華々しい活躍だけです。にもかかわらず、あなたは、はなから柳さんを見下しています。しかし、そんなあなたの乱暴なコンタクトを受けた柳さんは、あなたを対等な存在として認めようと努力しています。これは一体どういうことでしょう? このことが、何を表しているかお分かりですか? 自分を傷つけようとする相手に対して、この一見的外れな努力をする柳さんの心を、あなたは想像できますか? 想像できるのであればこの問題は、きっと静かに解決します。想像できないのであれば、真剣に想像しなければなりません。柳さんは、見ず知らずの、礼儀知らずな、包丁を振り回す男を、あなたを、受け入れようとしている。これは比喩ではありません。事実そういうことが行われたのです。新聞で報道されなくても、警察に捕まらなくても、あなたはすでに間違いなく柳さんを殺したんです。柳さんは生きているじゃないかと思うなら、それは甘えです。彼女が生きているのは、彼女の心の、魂の、意志の強さのためです。それはあなたのしたことと、全く次元の異なる話です。柳さんを殺すことなど、誰にもできない。しかし「あなたは殺した」のです。


意志の強さが人間の徳性の一つであることには、あなたも異論がないと思います。人類普遍の真実の強さとは、いかなる外部事情にも左右されるものではありません。人間の本質は、その内面にこそある、ということにも同意していただけるでしょう。そこで、あなたが、やむなくあなたの嫌う世界で生きなければならなくなったときのことを考えてみてください。その世界のほとんど全員が、あなたのことを嫌っています。しかし、そんな世界にも、必ずあなたを一人の人間として接してくれる人がいるものです。それは歴史が示しています。きっとあなたなら、すぐに幾つかの事例が思い浮かぶでしょう。そんな不幸な境遇のあなたに、間違いなく優しく声をかけてくれるのが柳さんです。ちょっと待て、何故彼女を苛めた俺を彼女が救うんだ? あいつはここぞとばかりに俺を八つ裂きにするよ、そう思われるでしょうか。しかし、そうはならないのです。この推察に論理的矛盾はないのです。鏡に映したように、そうなるのです。


そんなこと言われても、俺は対話は苦手だし、理屈は嫌いだし、白黒はっきりつけたいんだ。日本を出ることも一生ないだろうし....。あなたは、そんなふうに思うかもしれません。しかし、対話は勝ち負けではないのです。論理性や、話術の巧みさの「勝負」ではないのです。対話は常に歩み寄りの手段であり、融和こそ対話の目的です。それこそ黙っていても対話は成立するのです。


このblogのタイトルは「やや長き沈黙」というのですが、これは芝居のト書きによくある文句です。人生にはたくさんの、「やや長き沈黙」があります。それは舞台になったとき、最も観客が引き込まれる瞬間です。沈黙(している観客)が沈黙(している俳優)に引き込まれる。素敵だと思いませんか?


いろいろ書いてしまいましたが、私もまた、言葉を持て余し、言葉に苦しめられている一人の男です。言葉は難しい、過酷だ、そう毎日のように痛感し、ぼんやり空ばかり見ています。ですから私は、もう一人のあなたでもあるのです。いや、事実、あなたなのです。



あなたの書いた一通のお詫びの手紙が、柳さんにとって何を意味するか私には判りません。でも、もしも私があなたなら、勇気を出して謝罪します。また反対に私が手紙を受ける立場なら、あなたが送ってくれた手紙は、一生大切にすると思います。そしてあなたと同じ美しい国に生きていることを、心から誇りに思うでしょう。


最後まで読んでくれてありがとう



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